本日2025年1月17日で
阪神淡路大震災から30年。
震災を振り返る日は、
”防災を見直しましょう”
”避難経路を確認しましょう”
”家族と情報を共有しましょう”
など地震大国日本に住む我々が
今一度地震やその他の災害について
考え治す機会を与えられます。
勿論これらは大切なことですけど
今日は私があの日1995年1月17日
を境に考えるようになったことを
綴っていきます。
皆様にとってあの日はどんな日でしたか。
想いを馳せながら読んでいただけると幸甚です。
あの日の朝
1995年午前5時46分に
大規模地震が発生しました。
震源地は兵庫県淡路島北部。
このような情報は後に知ることで
当時私は布団の中にいました。
広島でしたけど非常に大きな揺れを感じ、
箪笥の上に置かれたガラスケースが
落ちて来るんじゃない?
と怯えていました。
飛び起きると既にテレビが付いていました。
当時はスマホどころが携帯もないし、
ネット情報ではなく、
テレビが一番早い情報でした。
どうやら関西で地震が発生したらしい・・
両親の怖ばった顔。
そう兄が関西に住んでいたからです。
連絡手段は固定電話のみ。
勿論繋がらない。
恐怖と安堵
兄と連絡が取れない。
震源地から離れているけれど
被害の大きさがわからない。
テレビのニュースを見ながら
ただただ祈るしかできなかった。
どれくらい時間がかかったか
覚えていませんが、
親戚も関西に住んでいましたから、
兄のところまで行ってくれたそうです。
崩壊した建物やご遺体を見ながら。
兄の無事が確認できた時に
広島まで連絡をくれました。
とてつもない恐怖感の後の安堵。
自然と手を合わせていました。
災害と死
兄や親戚の無事が確認できてから
登校しました。
教室では同じように関西に家族や
親戚が住んでいて連絡が取れない
クラスメートがいました。
知人が亡くなった、
行方不明だという友人もいました。
10代だった私は当然
人が死ぬということは
知っていたし
親戚の死に立ち会ったこともあります。
しかしながらどこか「対岸の火事」
のように捉えており実感がなかった。
それが兄のことで恐怖を知り、、
泣きながら連絡を待っている友人
を見ていると災害で人は死ぬのだ、
そして災害後の世界は変わるのだ、
と災害と死を自分のこととして
考えるようになりました。
生かされていること
それからご縁があり
震災後数年経ってから関西で
暮らすことになりました。
震災で避難された方や
大切方を亡くされた方と
お話をする機会も多くなりました。
お辛い経験を話しながら
みなさん口々に
「生かされている」と仰っていました。
そうか私も生かされているのだ。
小さい頃から
「生と死」について考える
子どもでしたが、
震災を機に
生きているのではなく
「生かされている」のだ、
と思うようになりました。
生きたかった方たちの今日
とはいえずっと
「生かされている」と思いながら
暮らしているわけではありません。
むしろ忘れてしまっていることの方が
多いでしょう。
しかし毎年1月とそして7月は特に思い出します。
7月は西日本豪雨で幼馴染が亡くなりました。
その時も「生かされている」のだから
これには意味があって
生きているうちにできることをしよう、
と考えていました。
すぐに切り替えはできなかったけれど
「生きていたかった方たちの今日」を
精一杯生きよう、と。
またすぐに忘れてしまうでしょう。
だからこそ今日のような日は、
もう一度命について考える。
私にとってそんな大切な機会なのです。
それぞれの歴史があり
それぞれの道があります。
今日私が綴ったのは
私が辿った30年。
みなさんの30年はどんな道でしたか。
今日は金曜日ですし、
週末にちょっと振り返るのも
良いかもしれません。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
素敵な週末をお過ごしくださいね。